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三国時代の社会構造や民衆の生活について

1 :無名武将@お腹せっぷく:02/01/23 22:18
曹操? 呂布? 諸葛亮?
んなもん、裕福な豪族連中が私利私欲で争っただけの話じゃん。
物語だけでなく時代そのものにもスポットライトを当てようぜ。

ということで、後はよろしく。


2 :曹操:02/01/23 22:22
私利私欲?

3 :無名武将@お腹せっぷく:02/01/23 22:24
たて逃げかよ、>>1 !?
じゃ、三国時代の奴隷の実態についてなんか教えて下さい。
秦や漢の頃と一緒なのかな?


4 :無名武将@お腹せっぷく:02/01/23 22:26
日照りが続いたりいなごにおそわれたり台風が来り

5 :無名武将@お腹せっぷく:02/01/23 22:41
>>4
光栄のゲームかよ!

6 :無名武将@お腹せっぷく:02/01/23 23:07
戸籍にのってる人少ないよね。
たぶん豪族などの地方勢力に人をとられてるんだろうね。

7 :無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 09:33
大昔(?)、三国時代が古代か中世かで論争があったよね。
今は、こんな論争は無意味なものとして流行らないのかな?

まあ当時も、宋代を巡っての議論と比較して地味だったのかも
しれないけど。

8 :無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 10:15
時代区分論は後世の都合でできたうさんくさいものだから、
どっちだとしてもかまわないと感ずる。中国は特に。

9 :無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 12:32
呂布が裕福な豪族だなんてはじめて知ったよ(w

10 :無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 12:35
まあ晩年の呂布は富裕な豪族にふくめてもよいと思うが。
スレ違いなので下げ

11 :無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 18:44
>>6
戦乱や重税を避けて、山の中とかに逃げてる人もいたのかな?

12 :がばろん@Mたんちゅきちゅき:02/01/26 06:43
奴隷といえば、

後年の北魏をはじめとした北方諸王朝で、
重装騎兵が発達したのは、

別段、彼らが騎馬民族による王朝だったからではなく、
一部の貴族が、おおくの農奴を保有し、民衆を私有化するするという、
その社会構造に原因が、あったのではなかろうか。

そもそも重装騎兵を維持するにはコストがかかる。
ゆえに、これに耐えられるのは、それなりの土地と私民を有する貴族階級である。

そして重装騎兵が国軍の主力部隊となり得るためには、
国家に、ある一定数の貴族階級が存在しなければならない。

そして、この重装騎兵を主力とする北方の軍事様式は、
おなじく貴族階級によって構成された
戦車部隊を中核とする古代社会の軍事様式と、
おなじような側面が、あるのではなかろうか。

# などと、なんの根拠もなく無責任に書き逃げしてみる。

13 :がばろん@Mたんちゅきちゅき:02/01/26 07:31
後漢の豪族と流民の関係については、こんなページをみつけたよ。

豪族とは何か
ttp://www2.justnet.ne.jp/~kays/g-kyo.htm
後漢豪族論
ttp://www2.justnet.ne.jp/~kays/g-.htm

14 :無名武将@お腹せっぷく:02/02/07 17:14
北魏って土地を、民衆に均等に分配したりなどの、
平等政策をとったのではなかったでしたっけ?

15 :がばろん@Mたんちゅきちゅき:02/02/09 21:40
北魏の均田制は耕作地を人々に公平に給付するという制度ですが、
実際には、一個人の所有する奴婢や牛にまで耕作地が給付される制度でした。

ゆえに、おおくの奴婢や耕作牛を所有する豪族たちは、
普通の庶民よりも、おおくの耕作地を給付されました。

またそもそも、この制度が制定された理由は、
当時の豪族たちが、おおくの土地と民衆を実際に私有化していたことにあります。

しかし均田制は上述のような運用のされかたをしたために、
その施行後も貴族階級が消えさることは、ありませんでした。

「時人困飢流散,豪右多有占奪, 安世乃上疏陳均量之制 ,
孝文深納之. 後均田之制」北史/列傳/卷三十三 列傳第二十一/李孝伯兄祥

土地所有をめぐる王権と貴族の確執については下のページがいいかも。
ttp://www.dokidoki.ne.jp/home2/akira16/index5-6.html


16 :無名武将@お腹せっぷく:02/02/11 14:43
ryousurenoyokann

17 :春野カスミ:02/02/19 23:58
ごはんちゃんと食べれない人達もいた?
あたしも頑張って駄スレを盛り上げる
うん
こんじょだ!こんじょお!!

18 :無名武将@お腹せっぷく:02/02/28 22:20
時代は違いますが塩鉄論などが参考になるのでは?

19 :無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 05:00
何か役に立つかもしれない?

20 :無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:00
昔のパンツってどんなの?ふんどし?

21 :無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 18:56
不勉強&スレ違いでスマヌが、三国時代の兵制はどうなってたの?
豪族の私兵を国家がまとめて軍を形成していたのか?
それとも国家が徴兵した兵を各指揮官に振り分けていたのか?
各武将謀叛の際に多くの兵が叛乱武将に付き従ったり
曹操の屯田制が特殊な例として史書に記載されているのを考えると、
前者が圧倒的だったのかな?


22 :無名武将@お腹せっぷく:02/03/31 11:37
誰か21に教えてあげて。


23 :無名武将@お腹せっぷく:02/04/09 00:01
当時の中国各地の特産物の情報もプリーズ。

>>21
後漢の曹操も豪族の一人として私兵を率いていた訳だから、
後漢から禅譲を受けた魏も、豪族が私兵を持つことを、
ある程度は容認していたのではなかろうか。

24 :21:02/04/09 06:10
レスTHX(涙
ってことはゲームの三国志は明らかに間違いってことね。


25 :無名武将@お腹せっぷく:02/04/13 06:59
スレ脱線だが。

>>24
私兵の要素のあるゲーム、面白そうかも…
「こいつボンクラ武将だけど、兵力あるから配下に欲しいなぁ」とか。

26 :無名武将@お腹せっぷく:02/04/13 11:45
>>25
たしかにいいね。
というより実際には権門の実態なんか、そんな場合が多い。
春秋時代の貴族など、分かりやすい例だと思う。
だいいちゲームにおける降伏・投降間もない人材に、いきなり大軍預けるなんぞ、
かなり興ざめするし。

こちらもスレ脱線にて、すまない。

27 :無名武将@お腹せっぷく:02/04/19 23:40
age

28 :無名武将@お腹せっぷく:02/04/19 23:49
結婚前のセックスとかどうなんだろうか
何歳くらいで成人?

29 :無名武将@お腹せっぷく:02/04/20 02:35
>>26
結局、コーエーゲーの武将の数=兵の不文律は間違ってないってことか。
よく批判の対象になるけど

30 :無名武将@お腹せっぷく:02/04/20 09:55
>>29
たしかに、「乱世記」ではそのあたりを考えたんだろう。
結局は、練り込みが足りなさ過ぎているようだが…。


31 :無名武将@お腹せっぷく:02/04/23 04:38
まあ無名の武将はくさるほどいたんだろけど

32 :おどるたい焼き:02/04/29 13:37
>>13
で紹介されてたkayさんの書評の中にもあるけど、
五井直弘『漢代の豪族社会と国家』を読んでみるといいんでない?
遺稿集だから本全体の統一感ないけど、興味深いコトいろいろと書いてあるよ。

とくに、序章にある後漢代の集落跡の話なんて、このスレにピッタリじゃない。
豪族は出土品でよく見かけるような楼閣に住んでたけど、農民はせま〜い竪穴住居だって。

ここ最近の発掘調査ってスゴイ気がするから、もしかすると陳腐化してるかもしれないけどね。

33 :無名武将@お腹せっぷく:02/05/03 23:31
パンツはどうなってたんだよー!

34 :無名武将@お腹せっぷく:02/05/03 23:39
>>33 (・∀・)パンティー!!

35 :無名武将@お腹せっぷく:02/05/08 23:42
あげ

36 :無名武将@お腹せっぷく:02/05/22 02:34
メッキ技術はあったの?

37 :無名武将@お腹せっぷく:02/05/23 00:00
世界史板みたい。
非常に勉強になります。
よってsage

38 :無名武将@お腹せっぷく:02/05/29 06:09
パンツ問題解決に向けてあげ

39 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 03:35
散髪とかどうしていたんだろう?

40 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 03:41
髪は伸ばし放題だったのかな?
よく戦国時代の兵士は伸びた髪を
いろいろな編み方で編んでいる図絵を
見たことあるけど
基本的にみなロン毛だったということで…

41 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/15 09:56
>36
秦始皇帝陵から出土した剣があまりによい状態だったので調べてみたら、
表面に異なる金属が塗布=メッキ加工?
という話を聞いたことがあるが……

42 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 06:16
便所はあったのか?

43 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 07:32
>>42
無論。
「韓馥、便所で自殺」「黄蓋、便所で瀕死」は
俺的に三国志屈指の名シーン

44 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 09:47
春秋期に、便所の落ちて死んだ君主がいるらしい…。

45 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 10:15
ハンショの便所で簀巻き

46 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 10:27
>>38
パンツについて。
あり。とく鼻褌幅、24.5センチ×長さ70センチの布で構成。
>>41
クロムめっきのさび止め加工
>>42
屋外に2階屋になった落とし便所(下にブタを飼う)
屋内ではおまる使用(夜)
>>43
曹嵩と妾。トイレで死亡。



47 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 18:53
三国時代の貨幣って、どんなんだったん??

48 :こんなスレがあったのか:02/06/20 19:39
>>46
>ぱんつについて。
北方のトランクス形式の騎馬褌も忘れないでほすぃ。

>>47
後漢末には後漢五銖や剪輪銭という貨幣も流通していたが、
董卓が質の悪い貨幣を鋳造し、貨幣の価値が地に落ちたことは史書にも名高い。
しかも三国時代も押し迫ってくるといよいよ金属が足らなくなり、
棺桶の釘を狙って葬列を襲撃する強盗事件さえもが発生した。
どちらかというと、布地や塩などが代替通貨として利用されることが多かった。


49 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 23:55
>>48
騎馬褌てのは、知らなかったけど、騎馬用の褌ってことですよね〜。
褌は、長さ的にひざぐらいまで、&おなかで紐で止めるってスタイルだから
、とく鼻褌のほうが、パンツ一丁!て感じが、かなり。
>棺桶の釘を狙って葬列を襲撃する強盗事件
これって、陳寿の三国志の中の記事だったよね〜。
どこの載ってたっけ?
ただ、前に読んだ印象じゃ、葬式の行列を襲撃して、中のものを盗むのに、
まず釘を取るのが普通だろ・・・て、思ったんだけどな。
それに、そんだけ貴重なものなら、平民ごときの棺おけに使用不可
とは思ったんだが。


50 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 23:57
>>47 朱銅銭…?だったっけ?

51 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/21 01:08
>>50
普通に小銭とか、董卓小銭じゃなかったっけ?

52 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/22 22:22
>>47
後漢を通して(末期除く)使われた貨幣が「五銖銭」。
それを董卓が改鋳して作ったのが「小銭」、一般的に「董卓小銭」という。
>>48にもあるとおり、この「小銭」のできの悪さや原材料の銅の不足で
貨幣はあまり流通しなかった・・・コレは魏の話。
蜀のほうでは結構銅山があったので、
五斗米道政権が鋳たとされる「太平百銭」や
蜀漢政権の「直百五銖」などが発行され、そこそこ流通したらしい。

こんなサイト見つけたんで、参考に
ttp://www.aa.aeonnet.ne.jp/~k.iida/kazuo/coin/index.html


53 :こんなスレがあったのか:02/06/23 10:39
布製の下着で馬に乗ると、慣れないうちはちんこが擦れてしまって気持ち良k……もとい、痛くなるので、
皮製の短パンのような形の下着も、(基本的には軍装として)
騎馬兵の組織的な導入と共に使用されるようになったようだと
被服関係の資料で読んだことがありました。
とく鼻褌は、考証のしっかりした中国製ビデオや連環画で見かけますよね。

>陳寿の三国志の中の記事だったよね〜。
晋書じゃなかったっけ?
う?…忘れました。 どこでしたっけ?(俺はバカか?)

54 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/23 12:03
>>52

           これはいいページだぁ!




55 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/23 20:17
>39,40
儒教社会において体の一部を損なうと言うのは不孝。
(刺青なんかももともとはそういう刑罰、晒し者の要素もあるが)

また、古代中国では頭は力の源とし、頭頂を人前に晒すことを恥とした。
下手に髪の毛なんか切ったらコン刑(頭を剃り、晒し者にする刑罰)
にされたと思われる。

と言うことで散髪は無し。

56 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 23:23
>>53
そんな状況になられたら、やばい(笑)。
布パンっていうか越中褌系より、そりゃ皮パンのほうか、
保護力がつよいですね。
でも、皮パン一枚者気持ち悪いよ〜。とく鼻褌も一緒にはかせておくれ。
棺おけ話。私も見つからん、どこだ?日本語で読んだから、
陳寿のだったと思うけど。
>>40
始皇帝の兵馬俑は、凄い髪型にしてるよね。
あみこみとか、三つ編みとか。たしかに、そういった系のほうが、
髪が乱れにくいのは確か。
ただ、三国志の時代にそれをしていたかどうかは、
私はちょっとわからんです。なんか俑とかの資料に載ってないかな。
後漢の後期では、徐州より南の地方で、髪を結わずに、
たらしていたりするのが普通という記述があるから、某ゲーの周瑜の髪型も
あながち嘘ではない。

57 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/29 08:03
「忘憂清楽集」と言う書物に、
孫策と呂範が打ったとされる囲碁の記録があると耳にしたんですけど、
それって偽書でしょうか?真偽はどうあれ一遍みてみたい...。

58 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/29 10:40
忘憂清楽集は宋代に書かれた本で
中国で一番古い棋書って言われてますね。
ただ、孫策と呂範の棋譜はつくりものらしいですけど。
大学図書館とかにはあるけど、少ないです。
みるなら買うしかないらしい。2万超えてますが。

59 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/29 16:59
>>58
情報ありがとうございます。
やっぱりつくりものなんですねぇ。
見てみたいけど、2万はちょっと高いなぁ...。


60 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/30 01:25
良スレage

61 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/30 11:28
>>59
かわなくても、いいのがあった。
これ。古今対局名局を集めてる。ただ、途中までしかないけど。

http://www1.odn.ne.jp/~assembly/go_meikyoku.html

一応。大学図書館であるのは。
筑波。立命、大谷。

62 :無名武将@お腹せっぷく:02/06/30 17:15
>>61
ありがとうございます!
言葉では言い表せないほどの感謝の気持ちでいっぱいです!



63 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/08 00:07
良スレage

ところで、後漢あたりの食事事情ってどんなものだったんでしょうか?
ああいうものは、やっぱり副葬品やなにかから
推察するしかないのでしょうか?


64 :武田騎馬軍団:02/07/08 01:45
>>63
今ほどのレパートリーはない。
味付けの方法も少ない。
(液状の調味料はなかったんじゃないかな。
 あってもせいぜい野菜と塩で作ったスープとか)

中原では麦が主食。これをパンみたいな餅にしたりしていた。
江南では稲作があった。

肉はよく食べられていた。江南では魚も食べられていた。

あと意外なことに野菜はあまり食べられていなかったらしい。
ほうれん草とか色々種類はあったけれどね。
にんにくはまだ食べられていなかったと思う。
当時、ニラ食べていたのは日本ぐらい。

熊は贅沢品。


65 :武田騎馬軍団:02/07/08 01:46
以上、何かの本で読んだのをうろ覚えで書いたんで、
間違いがあれば許してね。

66 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/08 23:49
>>63
漢代の馬王たいのお墓に出土品にいろいろありますよ。
このお墓は、前漢初期の湖南地方のもの。
野菜なら、芋、しょうが、たけのこ、レンコン、菱の実、
くわい、からし菜とか。
調味料も種類は、以外とあったようです。
塩、しょうゆ、みそ、佐藤、はちみつ、酒こうじ、酢
などを使用していた模様です。
あと、つけたしで、漢代宮廷料理で、沛公狗肉というものが。
狗とすっぽんを一緒に煮込んだもので、漢代の宮廷料理で
かならず出された一品とか。日経にのってたです。

中国書店から、馬王たい漢墓のすべて、という本が
でてます。これに詳しいです。

67 :63:02/07/09 00:06
おお!お早い回答かたじけない。ありがとうございます!
なるほどー。意外とけっこう色々なものを食べて居ったようなのですね。
さすがは食の国。

>中原では麦が主食。
もしかしたら、酒も麦酒みたいなものでしょうかね?
だとすると、ちょっとカコイイ!

肉は焼くだけで味が出ますから
古今東西、基本の料理なのでしょうね。
それに各種調味料まであったのならば
士大夫階級は、けっこう贅沢なものを食べてたんでしょうね。

68 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/09 22:46
肉食に関しては、庶民はあまり食べられなかったようです。
ぜいたく品という認識です。
郭林宗が、ニワトリ料理を食べさせてもらえるのかと、ぬか喜びした
ことが有ったように、お肉料理というのは特別な日のお料理・・・
という傾向が強かった模様です。
馬王たい墓から大量に見つかった副葬品の食料も
領民を搾取しての結果ですもん。それにしても、食料を墓に詰め込みすぎ!
鳥肉では、すずめや七面鳥、おしどり、鶴、梟、・・・。食いすぎです。
お酒でも、出土品は、白酒、米酒、温酒(かもし酒)、ろ過済みの清酒
が、出土してます。

69 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/09 22:57
でもほとんどが漢全盛期の話ですよね。
後漢末、つまり乱世の民百姓はかなり貧しい食生活だったんでは?
少なくとも戦中の日本よりはひどかったんじゃないかと妄想。

70 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 23:30
>>69
馬王たいの時代のは、前漢盛期ですし、もちろん彼らは、激リッチ。
よって、庶民とはまったくかけ離れた生活ですよね〜。董卓とかなら
生活が変わらなかったかもしれない(笑)
後漢末期の庶民の生活は、それはそれは、語るも哀れ・・・・。
だから程cが人肉混ぜ込めしたとか言われるんですね。

71 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 23:55
三国時代のsexはどうだったの?

72 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 00:00
>>71
こういうのって資料に残りづらいからなあ。

簡雍が「あのものは淫行の道具を持ってるからタイーホ」とか言ってるから
おそらく屋外でのsexとかは規制されてたんじゃないかな

今思いついたんで根拠0だが。

73 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 00:03
>>72
そうか(´・ω・`)ショボーン

74 :72:02/07/11 00:43
>>73
なんで(´・ω・`)ショボーンなんだ・・・

とりあえずさっきの投げやりな答えだと悔いが残るので、
ググルでちょっと検索してみました。

ttp://www.secret-dan.com/members/oosawa/diary/doku0002.htm
2月9日のところの本が面白そう

ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~shuren/comment/c072.htm
さっき触れた簡雍伝の記述から当時の性生活考察

ついでにこんなスレもあった・・・があっという間に撃沈
http://salad.2ch.net/warhis/kako/1004/10048/1004802924.html


75 :53:02/07/11 01:32
こんなことで、マジレスをしていいものかどうか……


『礼記』には、「健康(体内の陰陽の気)を正常に保つために、
夫は妻が50歳になるまでは、5日に1度のペースでセクースしなさい。」と書いてあるので、
たぶん、そんなペースでみなさんガンガってたんでしょう。 はりきれ。

ちなみに、後漢を代表する詩人の一人である張衡の祝婚歌「同声歌」という詩の中にあるように、
また、後漢書『邉讓伝』の中にあるように、前後漢代には花嫁道具の一つとして、
挿絵入りのSEX教本が入っているのが普通のことだった。
この教本は、素女、玄女、采女の三人の女性が黄帝と問答するという形を取っていて、
花嫁花婿に、性交時の体位や突き方、回数など事細かにレクチャーしている場合が多かったそうだ。
現存は……するのかな?
確か、断片的には明代に復刻されたヤツがあったはず。
邦訳されているかどうかは分からない。

後漢の道教の師の一人であり、黄巾党の聖人の一人でもある張道陵が、
「合気釈罪」という、「セクースによって解脱しようYO!」という教えを説き、
それを拡大解釈した黄巾党の一派が、『黄書』を元にカルト化して、
乱交もアリアリの先鋭的なSEX教団となったことは、後の唐の仏僧・道宣が編纂した
『広弘明集』にある通り。
宗教がたきの仏教徒のいうことなので、話半分とするとしても、
黄巾党の母体である道教は、元々性的神秘主義性格が強いので、
後漢の王充などは著作の『論衡』の中で、邪教扱いにしちゃってるね。
黄巾党はセクースに関して非常にオープンだったようです。

ついでに、同性愛に関してだが、
これはまぁ、皇帝すらも寵童を囲うような時代であるのだから〜……、
……三国志の人々も、お好きな向きは大いに楽しんでいたと思われ……。

76 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 17:11
神キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!

77 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/13 02:33
同性愛については、お気にな恋人を持つのがステータスとして、流行っていたらしいです。
漢代あたりから。
妻は、そのことについては文句言う権利なかったらしい。

宮廷の女官たちを ハダカで木に登らせて遊んだとか言うばか帝もいたぐらいだから、
お金持ちは、やり放題だったのではないかと思われ。

78 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/13 11:12
>>77
そんなものが流行っていたのですか・・・・。
ソースを教えてくだされ〜。

79 :77です:02/07/13 19:27
「古代中国の性生活」R・H・ファン・フーリック著 せりか書房
「性愛の中国史」劉達臨著 徳間書店
「肉麻図譜」中野美代子
「宦官」三田村泰助著 中公新書
同性愛がらみの記述があるものは、私が読んだのはこんな所です。
他にも、いくつかあるらしいですが。

80 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/14 01:43
>>79
サンクスです。
でも、濃いですな〜(笑)
確かなんかの本では、ホモはタブーでもなんでもなくOKらしい。
基本的に、陽気の男子が陰気の女子とエッチしたら、
陽気を損なって、健康によろしくないから、気をつけましょう。
というとこから、房中術の必要性が。
ホモなら、陽気×陽気で、プラマイ0ゆえ、OK〜という考えが
あったというのは聞いたことがある。
でも、三国志でそれには触れたくね〜。

81 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/14 04:24
801のヤシらが喜びそうだな

82 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/14 23:03
まだまだ性の対象が未区分な時代なんだろうね。
いっそ江森タンスレの住人を呼んで来たい。
さらっと読みで読んだことがあるが、あの小説は割と考証がしっかりしているし。

83 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 00:39
>>82
確かにあの本は、数ある三国志本の中でも
一番読み応えがある(←ああゆうとこは除いてくれ)
っていうか、一番よくかけている。
でも、あれは・・・・考えたくね〜。
ということで、すまんがこのスレでこれ以上
その話題はしたくないのだが。
よって、別話題希望。

84 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 01:00
色、については、どうなんでしょうか。
現代日本だと、喪服は黒で婚礼衣装は白ってのが通例ですよね。
三国時代の中国ではどうだったんでしょうか?
中原と江東じゃ、違っていたりとかもあったりしますか?
禁色は、この時代にすでに存在していたのでしょうか?

85 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 01:18
三国時代の喪服って白じゃなかった?
「報仇雪恨」と書かれた白旗と白装束で全軍を統一し
曹操は徐州を攻めた…。ってあるし。

86 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 02:12
三国時代に限らず、
中国・朝鮮・日本の伝統的な葬祭の色は白色です。

>現代日本だと、喪服は黒で婚礼衣装は白ってのが通例ですよね。
日本でもごくごく近年までは喪服(葬祭の色)は白ですよ。
喪服が黒になったのは、ほとんど明治にかかってからだったはず。

ちなみに婚礼衣装が白色というのは、根本的に間違ったイメージかもです。
なぜなら花嫁衣裳である白無垢は、喪服の色だからこそ白なんですよ。
つまり、鈴木家(仮名)の「お嬢さん」が喪服である白装束をまとうことによって死に、
加藤家(仮名)の「嫁」として生まれ変わるという、呪術的な意味があるのです。

現在でも、古い城下町の格式ある家の結婚式などでは、花嫁には2回のお色直しがあって、
白無垢→赤い着物→金襴緞子と衣装替えをします。
これは、
白:葬式(鈴木家のお嬢さん死亡)
→赤:誕生(産褥の血塗れとなって、加藤家の「嫁」が誕生)
→派手な衣装:(加藤家の財布で買った着物を着ることによって生まれ変わる)
という、「おんな」の儀式というわけです。。。
(※西洋のウエディングドレスについての意味は存ぜぬ。中途半端にバカでスマン。)

87 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 02:13


88 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 09:14
春秋期に、晋文公の死の直後、西隣の秦が軍事行動の一環で無断で晋領内を
通過しようとした際、後嗣である晋襄公は、秦をたたくため、喪中ながらも
白の喪服を真っ黒に染め抜いて出師し、以後の晋では黒が喪服の色となった
…とかいうのを聞いたことがあるけど…。

89 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 20:06
古代中国の喪服が白いのは、“染めていない”ものだからだったような。
つまり、喪中はいっさいの装飾と贅沢を排除して、喪に服すると言うことらしい。

日本の嫁入り道具の中に、白い喪服が入れられていたのは“ニ夫にまみえず”を
表現したものだとか(ようは、いったんこの人の嫁になったからは、たとえこの男が
死んでも他の男と再婚はせず、一緒に死ぬ覚悟ができていると言うことを表現したもの
らしいです)

90 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/17 17:04
誰かが死んだ時に破れた衣を着たり泥を顔に塗ったりするのは、古代儒教だっけ?

91 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/17 23:53
>>90
古代儒教というのかどうかは知らないけど、
古くから葬式の際には身内は麻の服着て・・・といのが
普通だった。
斬衰ってのはよく言われるけど、麻で作った袖とかを
断ちっぱなしにしたものだったはず。
ちなみに、他の弔問客とかは、平服+白地の冠とか
喪章みたいな衰といわれるものを平服の上からつけたりとか。

顔に泥を塗るの? ちょっとわからんっす。

92 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/18 07:56
泥を塗る、というのは知らないなあ。
儀式としての化粧や仮面とは違うんだよね?

いろいろ面白い話があるなあ、ここ。

93 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 22:25
小説で、三国時代婚礼の時は青だって表記があった気がする。

94 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/23 14:08
結婚衣裳の色問題解決に向けてage

95 :無名儒者@孫乾の従者:02/07/23 23:26
 えと…中国のドラマの三国演義の関連書籍では、
結婚式は赤って決まってたとか書いてあって、劉備と尚香の結婚式は
赤づくめになってて壮観でした。
 あのドラマは考証はかなり詳しいとも書いてあったのでアテに
なると思います…。

 で、皇帝のカラーって、「朱」ってどこかで聞いたことがあります。
京劇の本では、紫→青→黒→白で、紫が一番家臣ではランク高いとか
書いて有りました。
 
 でも図書館でちらと見た本なので、うろおぼえです。
間違いだったらごめんなさい。

 >93さま
 それは、もしかして、麋竺が若い女性の幽霊を蒼い衣を着せて弔ってあげた
 とかいう話のことですか?違ってたらすみません。

96 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 11:49
>>95
ん?中国の皇帝色って黄色じゃなかったか?

それにしても2ちゃんで敬称をつけるとは珍しいw

97 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/24 17:58
>96
帝は、季節によって服の色を変えるらしい。
春から順に青→赤→黄→白→黒、だって。靴は赤。

資料?…ゴメソ、爆笑三国志です。

98 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/25 23:06
皇帝の色って基本は朱かな〜っておもうんですよ〜。
というのも、「礼記」では、
「朱の車にのって、赤い馬に引かせて、赤い旗をたて、朱の衣をまとい、
 赤い玉を帯びると・・・・」
でも、綬の色は、後漢の皇帝は、黄赤だったらしひ・・黄赤って
オレンジ?

花嫁衣装〜。
身分によって使用可能な色がきまっていた模様です。
EX,600石以上・・・朱と、紫と紺つかっちゃだめ。
300石以上・・5色使用OK。青、黄、紅、緑、絳。
こんな感じらしい?です。

99 :無名儒者@孫乾の従者:02/07/26 21:04
 おお、みなさまよくご存知ですね、鎧はともかく、
衣装の習慣の資料本が少なくて困っているところです。ヤレヤレ。

 >86さま
 えと話ズレますが、ウエディングドレスって『緑』は演義が、じゃない
 縁起が悪いそうです。子供のとき読んだ怪しげな本の記述ですが。
 なぜかは書いていませんでした。

 >98さま
  黄赤、ですか…黄色&赤色という意味にはならないでしょうかね。
 そういえば、12章とかってゆー文様も文様図鑑に載ってますよね。
 12こ全部使ってよいのが皇帝でしたっけ?
  
 毎度うろおぼえでごめんなさいです。…ところでこの場で敬称って 
 珍しいのですか…知らなかった。戦国三国板しか来たことが無いもので。では

100 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/27 00:43
>>99
黄赤ですね。後漢書の輿服志の黄赤綬の項にかいてありますので。
ちなみに、この黄赤をベースにして、黄赤紺ひょう(薄青)の四色で
文様を入れたものが、天子の綬として用いられていた。

天子は章を備えるですから、12章の使用が許されています。
以下、位によって、9章なり7章なりと、変化がつけられているようです。

敬称は確かに、2ちゃんでつけるのは珍しい
みんな名無しなんで、気にしないんでしょう。
コテハンであれば、つけるかもしれないですが。
でも、まあマターリするので良いかと。

101 :93:02/07/27 18:25
>95 孫乾の従者殿
うろ覚えなのですが、玄徳と尚香の婚礼の描写で出て来ていたと思います。
実際の季節は別として、婚礼は「春」の行事であり、
春の色は五行で青だから…が根拠だったと記憶しています。

102 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:34
読売新聞夕刊を見た方はいますか?
中国で、また漢代の女性遺体が発見されましたね。
保存状態はかなり良いみたいです。
片目が半開きなのがちょっと怖かった。
名前は「凌恵平」だそうです。
相当高い身分の婦人だそうですが、一体誰の関係者でしょう?
今後の調査結果に期待したいですね。



103 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:37
>>102
ミイラ化してるのに半開き?
どういう意味?

104 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:43
>>102
読売取ってないです。詳細キボン! 

>>103
儒教の教え上、古代中国では、
死者の体は全力を持って、
生きている状態のままを保つことを主眼に置いて埋葬されるから、
生乾き状態が比較的長く続くんだよ。
だから、半目のままでミイラ化ということもありえる。

105 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:49
眼球は無くなっても瞼は残るのか、知らなかった

106 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:49
>>103-104
この記事です。
http://www.yomiuri.co.jp/05/20020729i402.htm

107 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:55
>>106サンクス
皮膚には弾力って・・まさか肉まで残ってたのか!?

108 :104:02/07/30 02:07
>>106 ありがd

江蘇省・連雲港!
徐州、キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!
これは、遺体本体もそうだが
副葬品に期待が持てるね。



109 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 02:29
写真を見た限りでは、遺体は黒ずんでましたけど、
肉付きは結構良かったことが窺えました。
遺体が濡れて光っているのがちょっと不気味でしたね。
いやぁ、でもこれは本当凄いです。

読売夕刊に載っていた写真とは違いますけど、
ニュー速+にあった写真を貼っておきます。
http://j.people.ne.jp/2002/07/12/jp20020712_19122.html




110 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 02:50
ああ、キモいよ…… 泣

111 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 02:54
>110
新聞にのってた写真はまっぱな上に間近で撮った写真だからもっとキモかった

112 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/02 01:29
読売にのった写真と同一のモノ
http://www.sponichi.co.jp/society/photonews/image/2002/07/29-1.jpg

113 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/03 00:16
>>112
(;゜Д゜)ヒーッ!!

114 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/03 19:16
 秦代に分刻みで時間記録 大量発見の竹簡から判明
 
【長沙(中国南部)3日共同】中国湖南省文物考古研究所は3日までに、
同省西部の竜山県で今年6月に大量発掘された秦代(紀元前221年−同206年)
を中心とする竹簡について、分刻みとみられる細かい時間を記した公文書が含まれ、
秦代の社会を知る上で貴重な発見であることを明らかにした。
同研究所によると、これまで解読した秦代の数百枚は、
少なくとも秦による中国統一の前年の始皇帝25年(紀元前222年)から2世元年までの
13年間にわたる地方の役所の報告書や通達などで、
年月日の後に「水下五刻刻下三」など細かい時間が記されたものがあったという。
同研究所では「刻下三」は分刻みの単位を示すもので、
前漢時代の出土品で存在が確認されている「漏壺(ろうこ)」と呼ばれる水時計が
既に秦代に使われ、地方役所に備えられた可能性が強いとしている。

http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=DLT&PG=STORY&NGID=AMAN&NWID=A0030300

例の焚書坑儒を免れた二万枚の竹簡の続報です。
これから更に色々な事が分かっていくんでしょうね。
研究者の方々の努力には頭が下がる思いがします。

115 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/03 19:49
>>114
す……素晴らしい。
中国、もっと発掘に力を入れてくれ。

116 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/04 01:05
>>114
発掘はどんどん新しいのが出てきて、資料の整理が
追いついてないところがあるのが、痛いけど
出来るだけ頑張って調べて欲しいよね。

117 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/13 00:04
好きなスレなのでホッシュ

118 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/13 10:49
後漢末〜晋までの官制とか役職ってどうなってたんすか?おりゃあ丞相>三公(大司馬・司徒・司空)しか知らないもんで。教えていただけませんか?

119 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/15 10:18
>>118
それではあまりに範囲が広すぎでございます〜。
もちょっと絞ったほうが、みんな答えてくれると
思うよ。

120 :コギャルとHな出会い:02/08/15 10:19
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121 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/15 18:24
>>118
範囲広すぎ・・・

122 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/16 20:25
>>118
少しは自分で調べろ
その上で分からんことを聞け

123 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/16 22:01
>後漢末〜晋までの官制とか役職ってどうなってたんすか?

後漢は後漢で官位は乱発するし、
群雄割拠時代〜三国は、各勢力で勝手に名乗りあうし、
晋代は晋代で、安定する前に国の基盤が乱れたから、
正直、そのへんの役職名の力関係や推移はわけわからん。

124 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/17 09:03
最初三国志読んだとき、
県?郡?州?
県よか郡のほうがでかいのかよ!
って思った・・・

官位は難しいね。もっとも、中央の官位よりか
地方の官職の方が興味があるYo


125 :がばろん@Mたんちゅきちゅき:02/08/17 10:39
>>32 おどるたい焼きたんの紹介してた
五井直弘たんの『漢代の豪族社会と国家』図書館で読んできたよ。

巻末の「第七章 曹操政権の性格について」が、
後漢時代、曹操をふくむ各豪族たちが、
漢王朝の官職の仕組みを利用して、
配下をふやし勢力を形成していくさまを
解き明かしていて、おもしろかった。

で、それとは関係ないけれど、おなじくこの本の第七章から、
魏王朝で大きな位置をしめていた官職「祭酒」と
青州兵についての話も、おもしろかったからここにコピペ。

「豪族軍に敵対していた黒山の賊などが、簡単に曹操軍の中に編入
されてしまったのは、両者の編成形態や結合形態が相似たものであっ
たことを示すものとして大いに注意しなければならない。」

「たとえば五斗米道の教団組織の中で大きな位置を占めていた祭酒
は、後漢時代の官制ではあまり重要ではなかった。ところが曹魏の
時代になると、たとえば丞相の属官に軍師祭酒、主簿祭酒、参軍祭
酒があり、司空にも祭酒があるというように、かなり重要な官位を
占めるようになってくる。これは五斗米の組織と曹魏政権の組織と
が、ある意味では共通の性格と組織とをもっていたために他ならな
いともいってよい。」

(五井直弘『漢代の豪族社会と国家』
 「第七章 曹操政権の性格について」)

126 :がばろん@Mたんちゅきちゅき:02/08/18 15:39
蜀の官職については、このページが、おもしろそう。
http://www.our-towns.net/~mujin/fancies.html

127 :こおろぎ│・ω・ ) ◆8T0pwV36 :02/08/21 00:57
ホッシュ( ・ω・)ホッシュ

128 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/25 08:56

   | ̄ ̄ ̄ ̄
   |  保守…
   |_  __
     ∨
             ∫      _____
    ∧_∧   riii=       |┌──┐| ̄|-、
   (   ´_ゝ 「 ノ        ||    ||  | ]
   /   ⌒\/ /───┐  |└──┘| 」 /
  / ∧   \ / ̄ ̄ ̄ ̄`・、[ ̄ ̄ ̄ ̄] ̄ ̄|
  ( 二\   `'|          X|      | O O|
  〜〜ー⌒ ̄~〜〜--〜〜-〜"~


129 :無名武将@お腹せっぷく:02/08/29 00:30
ホシュ♪
      ______         
      \|        (___
    ♪   |\            `ヽ、
         |  \ ChopinConcerto \
   ∧_∧|   \             〉
   ( ´∀`.| ♪   \          /
 ‖( つ|STEINWAY ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ノ
 ‖( 匚______ζ--ー―ーrー´
  〓〓) ) ‖    ||       .||
 ‖  (__)‖)   ◎      .||
.       ◎            .◎

130 :こおろぎ│・ω・) ◆8T0pwV36 :02/08/29 02:12
ホッシュのため、遅レス。

>>28
男子は20歳、女子は15歳で成人だったはず。

131 :無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 23:16
良スレアゲ

132 :無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 12:49
当時の官職の実際の仕事については、石井仁の「曹操 魏の武帝」に結構分か
り易く載ってたです。

ところで質問なんですけど、数年前に蒼天航路が流行ったとき、漢代の侠につ
いて書かれた本が出ていた覚えがあるんですけど、どなたか御存じないでしょ
うか。陳舜臣さんのではなかったように思います。

133 :無名武将@お腹せっぷく:02/09/06 22:52
>>130
『礼記』でしたっけ。男子は20歳で加冠、女子15歳でケイ礼(漢字分からず)
とありますね。
>>132
幇ではなくて?
ちょっと分からないので、人材募集age

134 :132:02/09/07 01:21
>133
いや、確か侠です。神保町の書泉で見たんですけど、金なかったんで買わなかったんですよ。
こないだ東方書店とかでも聞いたんですが、わからないとの事でした。

135 :孫乾の従者:02/09/12 21:17
 下げでも保守できますかな…?
 多忙なためレス・ネタ振りできなくて御免なさい。

136 :無名武将@お腹せっぷく:02/09/15 03:36
人形劇とか見ていると、ベッドとか椅子とか出て来ますが、
大きさはどれくらいなんでしょう?
また、庶民も使っていたりなど、
中国では一般的なものだったりしたのでしょうか?

137 :無名武将@お腹せっぷく:02/09/15 22:40
前漢ごろまでは、地面の上に直接、むしろ等をひいて座るなり
なんなりしていたようが、後漢時代以降、台を用いるようになって来ました。
釋名によると、座ったり寝たりするところを牀と読んでいました。
以下、単位はメートルです。
大きくて高いのが牀(望都二号漢墓出土品。長さ1.59 幅1 高さ0.18
細くて長い榻(河南省出土品。長さ0.875 幅0.72 高さ0.19
一人用の小さいものが独坐
足がついてない板状の台が?。
の分類です。
(以上、漢代の文物より)
庶民に関してはわからないけど、こういう台をつくったりするのにも
マネーがかかるわけだから、地べたに直むしろっぽい気が・・。
椅子はこの頃まだ、メジャーではなかった模様。
霊帝は、折りたたみ系の椅子を愛好者だったらしいですけど。

138 :無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 23:27
良スレあげ

139 :無名武将@お腹せっぷく:02/09/24 03:41
ちょと危険ぽ…? ageまする。

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