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2ch全板人気トーナメント〜三戦板の野望〜六拾壱

1 : ◆kIBAmwz. :02/07/09 00:46
★★ 三戦板は、Dブロック決勝への進出を決めました!応援して下さった方々に感謝を! ★★
−−次の試合、三戦板はブロック優勝をかけて出場。7月11日が出陣の日−−

ここはマターリと板同士の交友を築きつつ、三戦板を他板の皆さんに知ってもらうスレです
このトーナメントはあくまで遊び、祭りであります。
無理でも無茶でも本気でガンガン逝けるとこまで逝きます。
……でも、他板との関係を悪化させるような行為、戦術はやめましょう。
また、板内でも迷惑をかけないよう、基本的にsage進行にしましょう。
前スレ http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1026041377/l50

◆◆◆各板よりおいでの使者の皆様へ
三戦板は既存の同盟を尊重します。
新規の同盟締結については受入れが難しい状態ですが、
同盟・友好関係と相反しない投票依頼などはご自由に行ってください。
三戦板住人に受けそうな名スレ紹介等、アピールは大歓迎です。

◆◆◆スレ内の決まり
三戦板の外交・内政の最終判断は、合議決定後、592武将◆zl4ZuZ/g、
無名武将@飯抜け◆mSb.CrRIのいずれかが確認の宣言をします。
独自に外交を展開する行為は控えてください。

過去ログ、同盟・友好・交流板などは以下をご参照ください。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/9423/

971 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 21:37
●●●19時間でわかる?!戦国時代●●●

『戦国時代』、これってそもそもいつの時代のことなのよ?
なんて疑問があるかもしれません。
ためしに、三省堂の大辞林を見てみると・・・
----------------------------------------------------------
 せんごく-じだい 【戦国時代】

(1)日本史で、応仁の乱(1467-1477)から
  1568年の織田信長入京頃までの混乱期をいうが異説もある。
  群雄割拠、戦国大名の登場と下剋上の時代で、各地に戦乱が続いた。
----------------------------------------------------------
となっています。
「異説もある」というのがポイントで、あんまり厳密には決められていないんですね。
三戦板では、応仁の乱の話題はあまり出てきませんし、
逆に、豊臣秀吉による天下統一や、関ヶ原の合戦なんかは欠かせないネタです。

そこで、ここでは応仁の乱から元和偃武までを『戦国時代』とし、
主だった戦 <いくさ> を中心に、独断と偏見も織り交ぜ、
簡単にではありますが、流れを紹介したいと思います。

972 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 21:37
●●●応仁の乱 1467-1478年 其の一●●●

名前の由来は、年号。応仁元年に始まり、11年間も続いた内乱です。
この乱で有名な武将に、細川勝元と山名持豊がいます。
細川勝元は管領に三度も就いた重鎮。
山名持豊は、どちらかというと武功で名を上げた人です。
乱の前に坊さんになっているので、「宗全」という名前も持っています。
この二人は元々手を組んでいたのですが、山名持豊が倒した赤松氏を
細川勝元が再興させようとしたので、対立してしまいました。

二人の対立には、もう一つ原因がありました。斯波・畠山両管領家の継嗣争いです。
管領とは、将軍を補佐したりする室町幕府のエライさんで、
足利一族である細川・斯波・畠山の三氏が交代で就任していました。
この三家は三管領とも言われ、当時のエリート一族がそろってモメていた訳です。

細川勝元と山名宗全は、斯波家でも畠山家でも違う人物を跡継ぎにプッシュ。
これでもか!と対立していたところへ、またしても跡継ぎ問題が起こりました。
今度は将軍家です。


●●●応仁の乱 1467-1478年 其の二●●●

時の世は室町。八代将軍・足利義政にはなかなか男の子ができなかったので、
弟を次の九代将軍に選んでいました。
ところがその後、義政に男の子が生まれてしまって、さぁ大変!
この男の子・義尚の母親が、大河ドラマ「花の乱」の主人公・日野富子。
「ぜひとも我が子を将軍に」と力が入り、山名宗全に後押しを頼みました。
すると勝元は弟・義視を支持し、対立は一気に激化。

諸国の大名たちも、細川方の東軍(弟派)と山名方の西軍(息子派)に分かれ、
ここに、応仁の乱の勃発と相成りました。
結局、1473年に宗全と勝元が相次いで死去。
さらにこの年、九代将軍が義尚に決まったことから、徐々に戦は収束してゆき
ついには自然消滅のような形で終わりを告げました。

しかし戦乱は地方に拡大し、長く続いた戦いに京の都は荒れ放題。
将軍の権威はズタボロとなり、守護大名たちは地方の自国へと戻っていきました。
こうして、時代は戦国の世と突入していったのでした。


973 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 21:37
●●●北条早雲と小田原城 其の一●●●

本名?は伊勢新九郎。北条早雲というのは死後に呼ばれた名前で、
坊さんになった時の、「早雲庵宗瑞」という名前に由来しています。
元々浪人だったともいわれる早雲は、応仁の乱で弟・義視についていましたが、
愛想をつかして、妹が嫁いでいた駿河(静岡)の今川氏の元に身を寄せます。
この今川家でも家督争いが勃発。
これをうまく治めた早雲が今川氏親の後見人となり、沼津の興国寺城をもらいました。

早雲の名を一躍有名にしたのが、堀越御所の急襲です。
幕府が関東を治めようと「堀越公方」という役職を置いていたのですが、
その二代目が酒好きで暴れん坊、しかも肉親殺しの茶々丸という若者。
「こんな奴が近くにいたんじゃ、オチオチ寝てらんねぇぜ」といった理由で、
堀超御所を襲ったのです。
今川家からも援軍があり、茶々丸は自害。

いくら家臣にも嫌われていたとはいえ、幕府の役職を襲ったのですから、
これこそがエポックメイキング、戦国時代の幕開けとも言えそうです。


●●●北条早雲と小田原城 其の二●●●

当時(1495年)、すでにいい齢のオッサンとなっていた早雲ですが、
まだまだ野望は尽きません。次に狙うは、いよいよ小田原城です。

小田原城当主が大森藤頼へと代変わりした頃から、早雲はプレゼント攻撃を仕掛けます。
藤頼がすっかり気を許したところで、こんな頼みごとをもちかけました。
『伊豆で鹿狩りをしていたら、城の方に行ってしまったので勢子を入れてもいい?』
勢子というのは、狩りで獲物を追い立てたり、逃げるのを防ぐ係のこと。
無害な勢子に鹿を追い出させるだけだから、と言っておきながら
OKをもらって送り込んだのは、勢子になりすました兵でした。

ここで早雲が用いた策が「火牛の計」です。
中国の戦国時代(東周の後期)に使われた作戦にヒントをえて、
牛の角にたいまつをつけて走らせ、兵たちが裏山から攻め込みました。
これに小田原城の人々は驚き混乱し、警備が手薄だったこともあって
北条軍はほとんど戦わずして小田原を手に入ることができました。

この後、早雲は相模(神奈川)全土を平定。
後北条氏の、五代、百年にわたる基礎を築いたのでした。

974 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 21:37
●●●花倉の乱 1536年 其の一●●●

ちょっとマイナーかもしれませんが、花倉の乱をご紹介します。
またしても名門・今川家の家督争いです。

早雲が擁立した今川氏親は、駿河と遠江の二国を治める大大名となりました。
この頃に、今川家は守護大名から戦国大名へとトラバーユ。
とろこが、その跡を継いだ息子・氏輝が24歳という若さで病死。
氏輝には子供がなく、また同じ日にすぐ下の弟も死去していたのです。
突然オハチが回ってきた残された弟二人が跡目を争ったのですが、
強力なバックがついていた承芳が圧倒的な勝利を収めました。
この承芳こそ、後の今川義元です。

強力なバックの一人が、寿桂尼。氏親の正室(本妻)であり、氏輝と義元の母です。
幼くして当主となった氏輝を補佐していた経歴から、発言力は絶大でした。
そして、もう一人が太原崇孚(たいげんすうふ)です。


●●●花倉の乱 1536年 其の二●●●

太原崇孚は禅宗の僧侶で、別名・雪斎ともいいます。
花倉の乱まで善得寺で坊主見習として勉強していた今川義元の、
養育係であり、師匠でもありました。
雪斎は坊主だてらに兵法家としても名高く、
乱の以後、今川家の執権として、また軍師として活躍することになります。
三河から今川家へ人質として向かう途中、織田信秀(信長の父)に
拉致された竹千代(後の徳川家康)を連れ戻したのも、この人です。

この例からもわかるとおり、戦国時代の坊さんたちは
ただお経を読んでいるだけではありませんでした。
この年に起こった、越中(富山)での栴檀野の戦い、
河内や和泉(大阪)など近畿地方での天文法華の乱。
いずれも発端は武家が一向一揆を利用するという形でしたが、
寺門徒がガンガン戦争していました。
おまいら仏の教えはどうしたのかと、小一時間(略

この後、寺の武力はますます増大し、
各地の戦国大名を悩ませることになります。


975 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 21:38
●●●第一次国府台の戦い 1538年 其の一●●●

北条早雲が滅ぼした役職に「堀越公方」というのがありましたが、
これは足利一族のお家騒動のために置かれたものでした。
鎌倉公方という役職の一族だった足利成氏が
下総(千葉)の古河というところに移り、幕府に対抗したためです。

古河公方と呼ばれる一族の長には、この頃、足利晴氏がついていましたが
小弓公方として一大勢力となっていた弟・義明も、関東制覇をもくろんでいました。
義明は安房(千葉南部)の里見義尭と手を組み、晴氏を支援していた北条氏綱と
国府台で戦端を開きました。

里見氏といえば、強力な水軍を持っていたことや、
滝川馬琴作「南総里見八犬伝」のモデルとしても有名です。
義尭は、物語に出てくる里見義実の子孫にあたるわけですが、
家督争いの時に氏綱の後押しを受けて、当主となっていました。
その氏綱と戦うことになるとは、なんとも因果な話です。


●●●第一次国府台の戦い 1538年 其の二●●●

さて、意気揚揚と出陣した足利義明・里見義尭連合軍でしたが、
義明が前線で指揮をとっていたところ、弓で胸を射られて
あっさり戦死してしまいます。
これによって連合軍は総崩れ。
連合軍はあえなく安房へと撤退し、氏綱の大勝利で幕を閉じました。

北条氏綱は早雲の息子で、後北条氏の二代目。
 ▲  伊勢氏から北条氏へ改名したり、家紋を
▲. ▲ ←これに変えたのも氏綱です。
内政に、外交に精力的に活動し、早雲と並んで
北条家の基礎を作り上げたとされます。

ところで、国府台の戦い。第一次があるからには第二次もあるわけで。
第二次は、1564年、義尭の息子・里見義弘と氏綱の息子・氏康が戦いました。
緒戦は里見氏が制しましたが、戦勝祝いで酔っ払っているところへ
攻め込まれ、またしても北条氏の勝利となりました。
勝って兜の緒を締めよ、です。

976 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 21:38
●●●河越の戦い 1546年 其の一●●●

河越城は、現在の埼玉県川越市にありました。
早雲の時代から何度も戦ってきた宿敵・扇谷上杉氏の城でしたが、
北条氏綱によって攻め落とされていました。
氏綱の娘婿である綱成が守っていたところへ、氏綱死去のニュース。
チャンスとばかりに、扇谷上杉朝定が立ち上がります。

これに連動して山内上杉憲政も兵を起こし、
花倉の乱以後、北条氏とは不仲となっていた今川氏と手を結びます。
甲斐(山梨)の武田氏も今川方、安房の里見氏は北条のライバル。
さらに北条氏不利と見てとると、第一次国府台の戦いでは
共に戦った古河公方・足利晴氏までもが、上杉方へ。

ついに河越城は、上杉・古河公方連合軍に包囲されてしまいます。
四方八方、どちらを見ても敵だらけの大ピンチ!
ここで仲介に入ったのが、武田晴信。後の信玄です。
今川家と北条家の仲介人となり、両家に講和が結ばれたことによって
一つ脅威がなくなった北条家の三代目・氏康が、河越城へ援軍を送ります。
しかし、連合軍8万に対し、氏康軍はわずか8千!


●●●河越の戦い 1546年 其の二●●●

まともに戦っては勝てないと踏んだ氏康は、
何度も戦いを仕掛けては、あっさりと負けたように退却したり
上杉方へ和議を申し込んだりします。
これで連合軍はすっかり楽勝ムード。気が緩みまくってしまいます。

1564年4月20日、機は熟したとばかりに、氏康は夜襲をしかけます。
すっかり油断していた上杉方は大打撃を受けて敗走。
これを受けて篭城していた北条綱成も討って出て、足利晴氏を退却させました。
結果は、北条方の大勝利。
この戦いで、扇谷上杉朝定は戦死し、
山内上杉氏も古河公方も、これ以後衰退の一途をたどりました。
北条氏は相模だけでなく、武蔵(東京あたり)一帯をも制圧したことになります。

この河越の戦いは「河越夜戦」とも呼ばれ、日本三大夜戦の一つとも、
また厳島の戦い・桶狭間の戦いと並んで、戦国三大奇襲戦の一つとも言われます。

977 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 21:38
●●●厳島の戦い 1555年 其の一●●●

中国地方では、大内氏、尼子氏などが大きな勢力をもっていましたが、
この頃、毛利元就も徐々に台頭し始めていました。

毛利元就は大河ドラマにもなり、
なかなか波乱万丈な人生を送ったことが知られています。
毛利家は、元々縁のあった大内氏から尼子氏へついたものの、
家督争いで泣く泣く義弟を討った元就は、再び大内氏に従いました。
フラれた尼子氏は元就の居城へ攻め込みましたが、
苦しい篭城戦の末、大内氏の援軍をえて、元就はからくも勝利します。

ところが、大内氏では非戦運動が勃興し、それに反対した陶(すえ)晴賢が
なんと主君である大内義隆を討ってしまいました。
陶氏につくべきか迷っていた元就ですが、
1554年の折敷畑の戦いで、陶氏と敵対することが決定。
折敷畑の戦いは、素晴らしい采配で見事な勝利をおさめましたが、
しかし、この時、まだまだ陶氏の勢力は強大でした。

いよいよ陶氏との最終決戦、厳島の戦いをむかえます。


●●●厳島の戦い 1555年 其の二●●●

陶氏の軍勢は二万、対する元就は四千。
この兵力差に、元就は様々な裏工作を始めます。
陶陣営に「誰それは裏切ろうとしているぞ」とデマを流し、
実際に、何人かの武将を寝返らせたりもしました。

決戦の舞台に選んだのは、安芸(広島)の厳島。
厳島神社があることでも知られる、現在は宮島と呼ばれるところです。
ここに城を築き、寝返らせた武将に守らせます。
ただでさえムカついている陶晴賢に対し、「厳島の城は失敗だった」とか
「厳島を攻めてくれれば、元就を後ろから討つYO!」といったデマを流させます。

これらに後押しされて、陶氏は全軍を厳島に向けました。
元就は、海賊として暴れまくっていた村上水軍の協力もとりつけ
待ってましたとばかりに、挟み撃ち!
陶氏の大軍は、狭い島内で思うように身動きがとれず、大敗を喫してしまいました。

陶晴賢はなんとか逃げ延びましたが、後に追われて自害。
この戦いから、毛利家は中国地方の覇権を強固なものとしていったのです。

978 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 21:41
●●●桶狭間の戦い 1560年 其の一●●●

戦国三大奇襲戦の三つ目は、桶狭間の戦い。
これは最も有名な戦の一つですね。
戦国武将といえばこの人!織田信長と大大名・今川義元のガチンコ勝負です。

今川氏は軍師・雪斎の活躍もあって、
1548年の小豆坂の戦いでは、織田信秀(信長の父)を破っていました。
駿河・遠江(静岡)、三河(愛知)三国の太守となった義元は
尾張(愛知)への進出をもくろむようになるのです。

一方の織田信長は、「かぶき者」としてよく知られていますね。
傍若無人で苛烈な性格や、優れた戦いの才能など
様々な逸話を残す武人です。
父・信秀の跡を継いだはよいものの、
馬鹿殿の烙印を押され、家臣や一族から造反者が相次ぎました。
信長は、これらを次々と撃破。
ようやく尾張を平定しようとしていたところへ、今川義元が攻めてきたのです。


●●●桶狭間の戦い 1560年 其の二●●●

今川方は二万とも三万ともいわれ、対する織田方は二千から五千。
この戦いの兵数には諸説あって、正確な数字など知るすべもありませんが
とにかく圧倒的な差があったことは確かなようです。

今川軍には松平元康(後の徳川家康)も参加しており、緒戦は今川軍の勝利。
兵数にものをいわせて、順調に砦を攻め落としていました。
これに気を良くした今川軍本隊は、例によってすっかり油断してしまい、
桶狭間の田楽狭間で、のんびり休憩することになったのです。

この田楽狭間というところ、「狭間」というだけあって
周囲を小山に囲まれた細長い窪地。
隊列も細長くのび、陣をくむこともままなりません。

こんなオイシイ地形を見逃す信長ではありません。
「織田、動かず」「信長、戦意なし」と思わせて
ますます今川軍の油断を増長させておきながら、
こっそりと軍を動かし、迂回して、
たるみまくっていた今川軍の横っ腹を、ドツいたのです。


●●●桶狭間の戦い 1560年 其の三●●●

今川義元は首を取られ、討死。
大将を失った今川軍は総崩れとなり、織田軍の大勝利となりました。

桶狭間以後、今川家は没落し、三河を取り戻した松平元康(後の徳川家康)が
頭角をあらわし始めることになります。
また信長の名が上がったことは、言うまでもありません。
尾張を完全に手中にした信長は、美濃(岐阜)攻略へと進み、
ここから快進撃が始まるのです。

この戦いは信長の奇襲で名高いことは、既に書きましたが、
後世、奇襲ではなく正面突破だったという説も出ました。
どちらが正しいのかは分からず、ああでもない、こうでもないと
想像をめぐらすしかないようです。
こういったところも、戦国時代の楽しみの一つかもしれません。

979 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 21:41
●●●第四次川中島の戦い 1561年 其の一●●●

戦国時代屈指のライバル、武田信玄と上杉謙信の宿命の対決です。

信玄は、元の名を「晴信」といい、三戦板・騎馬軍団の
「お館さま」としても有名だったりしますね。軍略・知略に長けた名将です。
一方の謙信は、元は「長尾景虎」という名でした。
とりわけ信仰心が篤く、毘沙門天の旗が有名です。
また仁の心が深く、「敵に塩を送る」のエピソードでもよく知られています。

さて、父・信虎を甲斐性なしと駿河へ追いやり、当主となった信玄は、
その翌年から信濃(長野)へと侵攻を開始します。
追われた小笠原長時 と村上義清は、越後(新潟)の謙信を頼り、
謙信も、信玄に隣国を支配されるのは堪らん! と兵をあげました。

1553年から始まった川中島の戦いは、計5回あったとされますが、
その中で、最も過酷な戦いとなったのが、1561年・永禄四年の合戦です。


●●●第四次川中島の戦い 1561年 其の二●●●

1561年8月、謙信が川中島へと兵を向ると、すぐさま信玄も立ち上がり。
謙信は妻女山に、信玄は千曲川を挟んで海津城に陣をかまえました。
どちらも一万数千。いい勝負です。

妻女山は眺めがよく、いくら信玄といえど、なかなか落とせそうにはありません。
数日にらみ合いが続きましたが、ついに信玄が『キツツキの兵法』を仕掛けます。
上杉軍にバレないように裏手にまわりって攻撃し、
妻女山から降りてきたところを叩く、というものです。

武田軍は、夜通しで気合を入れて準備しました。
ところが、武田陣営から沢山の煙が上がったのを見て
謙信にモロバレとなってしまいました。
明け方、武田軍の目の前には、上杉軍が!
作戦の失敗によって、武田軍は大苦戦。最後には引き分けとなりましたが、
この戦いで武田方は、弟・信繁や、軍師・山本勘助などが討死しました。

こうして信玄と謙信が、熱い戦いを繰り広げている間にも、
信長と家康という新勢力が、段々と力をつけ始めていたのです。

980 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 21:42
応仁の乱
北条早雲と小田原城
花倉の乱
第一次国府台の戦い
河越の戦い
厳島の戦い
桶狭間の合戦
第四次川中島の戦い

↑ここまでの分。
↓今後の予定

姉川の合戦 
三方ヶ原の合戦
長篠の戦い
本能寺の変
山崎の戦い、賎ヶ岳の戦い、
小牧・長久手の合戦
小田原合戦
関ヶ原の戦い、徳川家康が征夷大将軍となる
大坂冬の陣
大坂夏の陣、元和偃武

981 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 00:35
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1026287102/563 迄確認。
挨拶済みの板一覧。7/11 0:30現在

-----1,2,3回戦のいずれかで三戦に入れてくれた板一覧(同盟・友好・交流板を除く)----
挨拶報告があった板は●をつけています。
-----------------------------------------------------------------------
【あ】裏株 ●エロ漫画・小説 ●オリンピック Off会  ●オカルト ●アニメ 
●SF 狼 ●家ゲー ●家ゲ攻略 ●お酒・BAR ●お笑い小咄 演劇 ●アナウンサー
【か】海外テレビ 株式  ●議員選挙 ●共産党 ●競馬 ●ゲーハー  携帯・PHS 
    
【さ】●CCさくら シャア専うんこ ●ゾイド ●政治思想 ●生活全般 ●ジュース 純情  
【た】●ダウソ ●卓上ゲーム ●たばこ 天文気象  豆腐  ●時計 ●地球科学
鉄道総合板住民有志 ●特撮! ●宝塚四季  ●同人 ●同性愛
【な】●ニュース極東 ニュー速+   ニュー速 懐かしドラマ ●日本史板 
●なんでもあり
【は】●HRHM  ●半角文字列  羊 ●福祉 プロレス ●物理 
   ハングル ハングル総督府  ●ほのぼの ファッション 番組ch
【ま】●益岡徹  ●まち中国 ●まち東京 ●漫画 ●ミステリ ●モバイル モナー
【や】郵便・郵政(選対無し) 野球(選対無し) ●夢・独り言(ぽんさん)
【らわ】●レトロゲーム  ●ライトノベル  ワールドカップ実況B ラウンジ  
   ●路線・車両 WC難民 ●ラジオ
---------------------------------------------------

同盟・友好・交流は一通り終了済み。
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1026287102/325

>>950 参考テンプレ

各板URLを貼っておきます。
http://jbbs.shitaraba.com/sports/bbs/read.cgi?BBS=2329&KEY=1022703070&START=321&END=323

http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1026287102/272 参考に。

982 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 01:57
●●●稲葉山城の戦い 1567年 其の一●●●

桶狭間の戦いの後、信長と家康は同盟を結んでいました。
清洲同盟と呼ばれるものです。
これで東から攻められる恐れのなくなった信長は、美濃(岐阜)攻略を始めます。

美濃の城は稲葉山城。当主は斎藤龍興です。
信長は、稲葉山に近い小牧山に城をもうけましたが、
難攻不落の稲葉山に向かうには、もっと近い場所に砦を築く必要がありました。
選ばれた場所は、墨俣(すのまた)でした。尾張と美濃の国境にあたり、
『交通の要・墨俣を制するものは美濃を制し、美濃を制するものは天下を制する』
と言われた重要地です。

信長は早速、城を築かせようとしましたが、
斎藤方から妨害を受け、また水気の多い柔らかい土地に手を焼いて、
誰も成功することができません。

そこで登場するのが、のちの太閤秀吉こと、木下藤吉郎です。
秀吉は地方の豪族に協力をあおぎ、わずか数日で砦を完成させてしまいます。
後の創作だとも言われますが、これが有名な『墨俣一夜城』。1566年のことでした。

983 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 01:57
●●●稲葉山城の戦い 1567年 其の二●●●

これと平行して、信長は斎藤方の武将たちに寝返り工作をしていました。
1567年、美濃三人衆と呼ばれていた稲葉一鉄、安藤範俊、氏家卜全が
織田方につくことになり、いよいよ信長は兵を進めます。

しかし、名目は「三河にむかうだけ」。
まさか攻めてこないだろうとタカをくくった斎藤龍興は、
城下に陣どった織田軍に攻め込まれ、城を追われてしまいました。

尾張と美濃、二国を手にした信長は、この直後から『天下布武』のハンコを使い始めます。
「天下に武を布く」、武力によっての天下統一を目指したこの翌年、
十二代将軍・足利義晴ノ息子である足利義昭が、信長を頼ってきます。
信長は、六角氏・三好氏・松永氏を破って近江(滋賀)を平定し、
義昭を主人として、京へとのぼったのです。

足利義昭は十五代将軍となり、幕府の再興に力を尽くそうとしましたが、
御しきれない信長は、まさに目の上のタンコブ。
徐々に、反信長へと傾いてゆくのです。

984 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 01:57
●●●姉川の戦い 1570年 其の一●●●

すっかり信長と不仲となってしまった足利義昭は、
各地の大名に、反信長運動の呼びかけを行います。
これに応えたのが、越前(福井)の朝倉義景でした。

朝倉義景も義昭を奉じて、京へ上りたいと思っていたのですが、
それをまんまと信長にかっさらわれ、頭にきていたのです。
こういった情報は結構ツツヌケなもので、1570年4月、
信長はテキトウな理由をデッチ上げ、越前討伐へむかいます。

なんせ「天下布武」の信長ですから、朝倉方を次々と打ち倒しました。
序盤から、圧倒的有利。
ところがそこへ、とんでもない知らせが舞い込みます。
浅井長政の裏切りでした。

近江(滋賀)の浅井長政は、信長の妹・お市を妻にしていて、
織田家とは友好関係にありました。
しかし、浅井氏と朝倉氏はそれ以前からの同盟関係。
苦渋の選択の末、長政は、信長に叛旗をひるがえしたのです。


●●●姉川の戦い 1570年 其の二●●●

信長は慌てて、京へと戻りました。
近江の長政に退路をふさがれると、挟み撃ちにされてしまうからです。

さらに信長は岐阜の居城へと戻り、朝倉・浅井連合軍を討つ準備をします。
同盟をくんでいた家康に援軍をたのみ、秀吉には寝返り工作を行わせました。
決戦は6月。
近江の姉川を挟んで、織田軍と浅井軍、徳川軍と朝倉軍がついに対峙したのです。

緒戦は浅井・朝倉が優勢に進めました。
一時は織田軍本陣近くまで攻め込まれるほどでしたが、
徳川軍が踏ん張り、さらに稲葉山城の戦いで織田方についた美濃三人衆が加勢し
形勢は一気に逆転!
激しい戦いは、一万人近い死者を出した浅井・朝倉方の大敗となり、
両大将は敗走しました。

このとき、追い詰めておきながら浅井氏・朝倉氏を討てなかったことが、
この後、信長の不利を呼び寄せることとなります。

985 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 01:57
●●●室町幕府の滅亡 其の一●●●

1750年、姉川の戦いの数ヵ月後、石山本願寺が信長に対して兵を挙げました。
石山本願寺は大阪西部の浄土真宗のお寺なのですが、
大きな武力をもっていて、一向宗(浄土真宗)門徒の反信長の総本山となっていました。
一向一揆は各地に広がり、伊勢(三重)では信長の弟・信興が討死してしまいました。
この戦いは凄惨の一途を極め、11年も続いていきます。

さらにこの年、反信長の棟梁、将軍・義昭の呼びかけで、近江の三好氏が挙兵。
そこへ浅井・朝倉軍が加わり、信長は苦しい戦いを強いられます。
そこで信長は、これまた強い僧兵をかかえていた比叡山延暦寺に対して
協力するか、中立であるように迫ります。
しかし、延暦寺は浅井・朝倉方に参戦。

正親町天皇の助けを借りて、講和した信長ですが、
言うことを聞かなかった延暦寺に、怒り爆発!
翌年の1751年9月、突如兵を比叡山へ上らせると、
寺をことごとく焼き払い、僧侶など数千人の首をはねました。

この焼き討ちが、
暴君・信長のイメージを決定づけた出来事の一つといえます。


●●●室町幕府の滅亡 其の一●●●

武田信玄が病死した1573年、度重なる抵抗に業を煮やした信長は、
ついに将軍・足利義昭を追放し、ここに室町幕府の終わりをむかえます。

同じ年、朝倉家の本拠地である一乗谷城(福井)へ、
続いて浅井家の本拠地である小谷城(滋賀)へ攻め込み、
朝倉、浅井の両家とも滅亡してしまいます。
戦いの後、信長は浅井父子・朝倉義景の頭蓋骨を杯にして
酒を飲んだといわれています。恐ろしい・・・(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

これで、義昭が中心となっていた反信長連合は、ほぼ壊滅。
信長の天下統一まで、あと一歩となりました。

986 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 03:29
●●●長篠の戦い 1575年 其の一●●●

病死した信玄の跡をついで武田家当主となっていた勝頼は、
家康に奪われていた長篠城(愛知)を取り返そうと、出陣します。

家康のもとには、近畿で戦いに明け暮れていた信長も駆けつけ、
兵数では、信長・家康軍が圧倒していました。
広く後の世に名を残した二人が手を組んでするのですから、
兵数差に安心する、などということはありません。
当時、最強と恐れられていた武田騎馬軍団を防ぐために
『馬防柵』というものを作らせていました。

これを知ってか知らずか、武田軍も作戦を練り、
5月、開戦となります。

この戦いで有名なのが、信長の鉄砲の使い方です。
それまでも鉄砲はありましたが、一発うってから次を撃つまでの準備が長く
また今の銃とは比べ物にならないほど射程距離が短かったために、
とても戦場では使えないとされていました。

987 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 03:29
●●●長篠の戦い 1575年 其の二●●●

しかし信長があみだした「三段式装填法」は、三人が一組となり、
一人が発射、一人は点火準備、一人は銃身の掃除と弾込めをするというものでした。
この方法によって、従来よりずっと短い間隔で弾を撃つことが出来るようになったのです。
この成功で、鉄砲は主力兵器として見直され、
戦のスタイルそのものが変化する、きっかけとなりました。

この三段鉄砲隊に加えて、
馬防柵に行く手を阻まれた騎馬軍団は自由に動き回ることができず、武田軍は大敗。

これ以後、武田氏は甲斐・信濃へと撤退し、衰退してゆきます。
1582年、信玄の娘を妻にもつ木曾義昌が離反したところへ、
織田軍が攻め込みました。天目山の戦いです。
木曾氏のほかにも織田方へ寝返るものが相次ぎ、
さらに織田方へは徳川軍・北条軍も加わり、武田軍は風前のトモシビ。

逃げ落ち、追われながらも果敢に戦いましたが、多勢に無勢。
ついに田野(山梨)で、当主の勝頼をはじめ、家族や家臣たちが自害し、
武田家の滅亡となりました。

988 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 03:56
>>985訂正。
×この戦いは凄惨の一途を極め、11年も続いていきます。
○20年も、でした。

989 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 06:25
●●●本能寺の変 1582年 其の一●●●

ついに出ました、本能寺!

1580年、散々信長を苦しめた石山本願寺との和睦が成立し、
1582年、武田家をも滅ぼした信長は、近畿・関東を手中にし、
いよいよ中国地方へと乗り出します。
ここには厳島の戦い以来、毛利氏が代々大きな勢力を保ち、
信長にくみそうとはしませんでした。
中国地方を手に入れれば、天下統一も同然といったところだったのです。

まず秀吉を向かわせていた信長は、明智光秀に援軍に向かわせようとしました。
信長自身は5月末に安土城を出発、本能寺へ入りました。
本能寺は、現在の京都にあった法華宗のお寺です。

6月1日。この日、信長は茶会を開いていたとされています。
近畿にはすでに敵なしとなっていたので、リラックスしていたのも無理はありません。
眠りについた信長は、明け方、外の騒ぎに目を覚まします。
そこで見たものは、中国に向かっているはずの明智光秀の軍勢でした。


●●●本能寺の変 1582年 其の二●●●

光秀がどのような理由で謀反を決意したのかは、さだかではありません。
かつて他の家臣たちの前で、恥をかかされたことを根に持っていたからだとか、
頑張っているのに目をかけてくれない信長にブチキレたのだとか、
はたまた覇権をにぎりたかったからただとか、
いろいろ言われていますが、これは本人のみが知るところです。

6月1日夜。
光秀は、自軍の兵たちには「信長へ出立前の挨拶に行く」と言って、京都へむかいます。
ところが、段々と鉄砲の準備をしたり、戦装束をそろえたりと
物々しい雰囲気になったきたことから、兵たちも異変を察します。
そして桂川を過ぎたところで、信長を討つ意思を明らかにするのです。
「敵は本能寺にあり!」と、実際に光秀が言ったかどうかは分かりませんが、
とにかく悲壮な決意であったことでしょう。

翌日午前6時。
一万を超える光秀の軍勢が、ついに本能寺に攻め込みます。


●●●本能寺の変 1582年 其の三●●●

この頃、織田方の名だたる武将たちは、中国、関東、北陸と
各地に出払っていて、本能寺にいた手勢はわずか百名ほどであったといわれます。

百倍の兵数差では、とても戦いにはならず、信長は「もはやこれまで」と自害します。
その直前、光秀に首はとらせまいと、森長定(蘭丸)に火を放つように
指示したとされ、本能寺は焼け落ちてしまいます。
森蘭丸をはじめ、信長につき従った者たちも自害。
他の家臣たちも、ことごとく討たれてしまいました。

信長の息子・信忠は、この時 妙覚寺にいたのですが、
光秀の謀反を知ると、すぐさま本能寺へむかいました。
ところが光秀の軍勢に阻まれてしまって、二条御所へ入りました。
そこで光秀に一太刀あびせようとしたのですが、信忠の手勢もごくわずか。

あっさりと二条御所は落とされ、ここに第六天魔王を自称し、
天下布武を目指した信長の野望はついえたのです。


990 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 06:25
●●●山崎の戦い・賎ヶ岳の戦い 1582-1583年 其の一●●●

信長を倒し、光秀が覇権を握った・・・はずだったのですが、
そううまくはコトが運びません。
中国へと出向いていた秀吉が、とりいそぎ毛利氏と講和を結んで引き返してきたのです。

合戦の地は山崎(京都)。
13日に戦端が開かれたといいますから、
いかに秀吉が強行軍で帰ってきたかがわかります。
秀吉軍は三万、光秀軍は一万ほどと差があったこともありましたが、
光秀軍の主力武将・斎藤利三が討たれたことによって
連鎖的に陣が崩れ、光秀は敗走します。

数人の近臣を従えて、逃げていた光秀ですが、
山科の竹やぶで、ふいに現れた農民に竹槍で刺されてしまいます。
これは致命傷となり、光秀は近臣に介錯され自害します。

本能寺で信長を討ってから、わずか11日。
俗に『三日天下』といわれる光秀の覇権は、あっけなく幕を閉じたのです。


●●●山崎の戦い・賎ヶ岳の戦い 1582-1583年 其の二●●●

光秀を討った後、信長の跡継ぎを決めようと「清洲会議」が行われました。
ここで秀吉と、古くから織田家に仕えていた柴田勝家たちが対立してしまいます。
どちらも織田家跡継ぎの後ろ盾となって、覇権をにぎろうとしていたのですから
戦になってしまったのは、当然の流れといえます。

1583年3月。賎ヶ岳(滋賀)の戦いは、序盤、柴田方が押していました。
秀吉は各地に反対の動きがあり、別所へと移っていたからです。
だからこそ柴田方は戦いをしかけたのですが、
秀吉は電撃的な速さで全軍を移動させ、激戦となりました。
またこの戦いでは、加藤清正や福島正則たち
『賤ヶ岳七本槍』と呼ばれる武将の活躍があり、秀吉軍の大勝利となりました。

主君のアダをうった山崎の戦い、
織田家の重鎮・柴田勝家を破った賎ヶ岳の戦い。
これらによって、秀吉は信長の後継者としての地位を築いてゆきます。


991 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 07:15
●●●小牧・長久手の戦い 1584年 其の一●●●

順調に勢力を伸ばしている秀吉を、とりわけ快く思っていない人がおりました。
三河の徳川家康です。

家康は信長と同盟に関係にあり、何度もともに戦った間柄です。
たまに「第一高天神城の戦いでじゃ援軍くれなかった!ウワァァァンヽ(`Д´)ノ」と
拗ねたりもしましたが、最も強い結びつきのあった武将の一人。
なのに本能寺の変から賎ヶ岳の戦いまで、すっかり部外者となっていたのです。

秀吉が押した三法師(織田信忠の息子)が織田家の当主となっていましたが、
後見人となった秀吉は、対立候補であった信孝を討ちます。
カリスマ・信長を失った混乱の中で、我も我もとアトガマを狙っていました。
その一人、信雄(信長の次男)は、家康と手を組み、秀吉に戦いを挑みます。

3月。秀吉軍は十万、家康・信雄連合軍は二万。
小牧(愛知)で対峙した両軍ですが、この時はまだ秀吉は到着していませんでした。
しかし武功を立てようと焦った秀吉方の武将が討って出て、
あえなく敗れた、などということがありました。


●●●小牧・長久手の戦い 1584年 其の二●●●

その数日後、家康はわずかに陣を動かして、長久手へと移ります。
ここでようやく、秀吉軍と家康・信雄連合軍がぶつかるのですが、
圧倒的な兵力差に連合軍は手を出せず、
一方の秀吉も、地の利は敵方にありと、うかつに手を出せません。

どちらも相手が動くのを待っていましたが、先に動き出したのは秀吉軍でした。
家康の本拠地である三河を襲って、家康の注意をそらせようとしたのです。
しかし、この作戦は見破られてしまい、三河へ向かった隊は挟み撃ちにあいます。
これ以後、再び持久戦となり、勝機を見出せない秀吉は、信雄に講和をもちかけます。

同じく勝てそうにないと思っていた信雄はこれに応じ、
戦う大義名分がなくなった家康も、引き上げることになりました。
家康が秀吉の臣下となって、秀吉の覇権が決定的なものとなったのです。
11月のことでした。


992 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 08:49
●●●小田原合戦 1590年 其の一●●●

後北条氏は、家康と手を組んで反秀吉となっていました。
ところが、小牧・長久手の戦いで家康が秀吉についてしまったので
随分と苦しい立場に置かれていました。

数年の間、秀吉は四国・九州討伐にむかっていたため、平安が保たれていたのですが、
薩摩(鹿児島)の島津義久の降伏によって、四国・九州地方も平定。
残るターゲットは関東のみ!
いよいよ窮地に立たされます。

関白となっていた秀吉は、各地の大名に絶対服従を誓わせます。
これに従わない者は「私的」ではなく「公的」になるとして
北条氏へ京へ来るように命じます。
早い話が、あれこれといちゃもんをつけて、戦う口実を作ろうとしていたのです。


●●●小田原合戦 1590年 其の二●●●

家康の半ば脅迫めいた口添えもあって、
この時は北条氏規(氏康の四男)が京へ行き、事なきをえました。
ところが1579年、北条氏の家臣が秀吉方の名胡桃城を奪うという事件が発生。
これを秀吉は、服従する意思ナシと見なして、
1590年3月、天下に号令をかけ、北条氏討伐へと兵を出します。

20万を超える大軍勢が近づきつつある中、
小田原城では、城を出て迎えうつのか、あるいは篭城するのかが決まらず
モメにモメまくっていました。
これが有名な、そして三戦板で度々見ることのできる『小田原評定』です。

結局、篭城することが決まり、城の外側をぐるりとめぐる囲いを作ります。
これが威力絶大。
秀吉軍は城を取り囲んだものの、なかなか攻めることができません。

そこで秀吉は兵糧攻めを行い、同時に、
各地に点在していた北条氏の支城を、次々と落としていったのです。


●●●小田原合戦 1590年 其の三●●●

いくら堅城といえど、中にいるのは生身の人間。
いつ終わるともない戦いに小田原の人々は疲れ果て、
段々と降伏へと意見が傾いてゆきました。

7月、北条氏直が降参し、氏政と氏照が切腹となりました。
ここで早雲から五代、百年続いた後北条氏が滅亡したのです。

小田原合戦の後、秀吉は奥州(東北)平定へとむかいました。
「ダテ男」の語源ともなった伊達政宗は、すでに臣下となることを表明しており、
その他の大名たちも、秀吉の大軍の前では、なすすべなく降伏。

この年、豊臣秀吉による天下統一となりました。

993 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 16:39
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994 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 23:35
埋めます。

995 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 23:35
  

996 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 23:36
悔いなし!

997 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 23:36
   

998 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 23:36
それにしても皆よく頑張ったね。

999 :無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 23:36
楽しかった!みんなありがとう

1000 : ◆kIBAmwz. :02/07/11 23:36
┏━━┓
┃掠疾┃   1000番制圧!
┃如如┃  
┃火風┃   御旗楯無、御照覧あれ!!
┃不徐┃
┃動如┃
┃如林┃
┃山侵┃
┣━━┛

┃ 三国志・戦国時代板
http://curry.2ch.net/warhis/

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